花見

近くの川縁に河津桜が咲いていて、少し早めの花見をした。桜の美しさよりも、そこで目にしたことを覚えていたいと思った。

夫がいて、息子がいて、河津桜が満開の土手があって、土手の下では息子やよその小さな子たちがとことこ走ったりしていた。土手の上では高齢女性たちが長い間日向ぼっこしている。空はさめざめと青い。河岸近くに一定間隔で打たれた杭に鴨が点々ととまっている。カヌーの練習をする人たちのボートが連なって流れていく。

桜を見る、というのは特別だ。記憶の中で「桜」がフックになって、そのときどんな風に過ごしていたかを思い出せる。

20代のころ、桜を見に家族で神田川沿いを散歩した。その頃母は闘病中で、弟は全国転勤ありの会社に入社して、名古屋に配属が決まったばかりだった。小さな蕎麦屋でお蕎麦を食べて、目白の通りを抜けて、椿山荘のお庭を歩いた。そこではじめて、両親が椿山荘で結婚式を挙げたことを知った。弟が家を出るから、もう恐らく二度と家族揃って花見をすることはないという予感がしていた。「今日この日をずっと覚えていよう」と強く思ったのだった。実際、家族5人そろっての花見は、それが最後だった。

桜の記憶に紐づけて、そのとき家族と過ごした日のことを思い出す。今も桜を見ると神田川を散歩したあの日がよみがえる。

いつか遠い日、桜を見れば今日のことも思い出せるだろうか。「外国人が多いね」とふいに夫がいうので辺りを見回すと、確かになぜかアジア系の外国人が多くて、なんとなく「彼なりの視点」を感じたこと。歩き疲れたのか甘えたな息子が、私が歩くのをはばんで抱っこをせがんでいたこと。駅名しりとりに夢中になっている間は、素直に歩いてくれたということも。