自然をあじわう

グラスに注がれた水をひと口飲む。よかった。知覚過敏なので氷が入っていない水は嬉しい。

ゴクゴク飲んだあと、遠くからハーブの香りが追いかけてくることに気づく。

「庭に生えてるのを、わさわさっと摘んで煮出したものなんです」と言いながら、Sさんはやかんの中身を私たちに見せてくれた。蓋を開けると小さなザルのようなストレーナーが付いていて、大人の手のひらほどの長さにカットされたレモングラスがぎっしりと詰め込まれている。子どもの日に風呂に浮かべる菖蒲の葉に似ているな、と思った。

「抱っこ、抱っこ」とせがむ息子を抱え、その日宿泊するゲストハウス目指して炎天下のなか体重15キロになる幼児を抱っこで歩いた。汗だくだくのへとへとだった。宿泊票を書き終わったときを見計らって、今夜の宿主が淹れてくれた。私たちをねぎらうような水だった。

部屋で一息ついたころ、夫にあの水おいしかったねと言う。すると、そうだね、レモングラスかな。と、こともなげな返事が返ってきた。

キャベツとレタスの違いが30年以上わからない夫は、レモングラスの名前を覚えていた。

翌朝は朝食をご一緒させていただいた。せいろで蒸した食パンは、ふわふわでぷるぷるだった。あち、あち、と言いながら、息子も手づかみでもぐもぐ食べている。

ハーブウォーターがおいしかったことを伝えると、Sさんは詳しく教えてくれた。レモングラスの他にも、モヒートミントやカルダモンが入っている。おしゃれな味だなと思ったら、スパイスが入ってるのか。カルダモンが入るだけで、なんか複雑な味になる。私がハーブウォーターを入れることはないかもしれないけれど、この知識は何かに応用できそうだなと思った。

子どもをベビーキャリーで背負って歩くのは腰の限界がきていて、最近は登山をあきらめつつある。というかもうすでに諦めていて、背負子はメルカリで売ってしまった。尾瀬行きたいけど、いつ行けるだろう。抱っこをせがむのを卒業して自分で長い距離を歩けるようになるまでは難しいかもしれない。ただ、わが子の「抱っこして」には、自分の腕力と腰の限界がくるまで喜んで応えたいと思っている。私は2歳下に弟がいたこともあり、母親に抱っこされた記憶が全くないのだ。

SNSで山仲間が、北アルプスや東北の山々を縦走した報告をしているのを見ると、誰にも責められているわけではないのに、なんとなく焦ってしまう。自然と触れ合いたいという静かな熱意はつねに持っていたい。でも、15キロ背負って山に登るだけが自然との接点じゃない。ハーブウォーターに自然を感じて心癒されようとする、いまの私でいい。

川と暮らしが近いその町で、息子はトンボが飛ぶのをたくさん見つけた。夏の終わりだった。

 

子と絵本を読む

子育ては、自分の子供時代の追体験だなと思うことがある。

 

3歳の息子のためにという名目で、図書館で絵本を借りる。

息子が好きな乗り物の本やおさるのジョージのほかに、賢くなれよという下心から、「ちいさなかがくのとも」を3冊手に取る。加えて、私自身が小さかった頃に好きだった絵本を1冊、息子の絵本バッグに滑り込ませる。

 

先日は選んだのはこれ。

 

きょうはなんのひ?(福音館書店
コマ割り風の絵も好き

「おかあさん、きょうは なんのひだか、しってるの?しーらないの、しらないの、しらなきゃ かいだん 三だんめ」

そうそう。この出だし。

はじける笑顔で謎めいた歌を歌うものだから、冒頭から、「まみこの領分」に引き込まれてしまうのだった。宝探しのストーリー展開に、わくわくしながらページをめくったのが懐かしい。大人になって読み返してみても、家族を喜ばせたいという温かさに包まれた一冊だなと思う。

 

特に気に入っていたのは、まみこが宝物の中身を明かすシーンだった。

入れ子のように重なった、手作りの色とりどりの箱を開けていく(マトリョーシカのように小箱を作って隠す、その発想にもわくわくした)。最後の小さな箱の中にコロンと入っていたのは、青い竜の鬚の実と赤い南天の実。まみこの宝物は「父と母」そのものであり、彼らを紫水晶とルビーに見立てて贈ったのだ。

 

実際に「竜のひげの実」を見たことは無かったけれど、たぶん近所の公園か雑木林で見つけられるものなのだろう(調べたところ、リュウノヒゲは一年中通して道端やマンションの植栽でよく見かけるものであり、秋から冬にかけて実をならせるらしい)。身近なところで見つけたものを特別なものに見立てるそのセンスが、粋だ。もちろん、両親を想うまみこの愛も素晴らしいのだが、それ以上に、木の実を使ったその表現力にグッときてしまった。“生活の延長線上に、宝物は転がっている”。当時の自分と同じくらいの歳なのに、それを知っている絵本の中のまみこが、なんだかすごくカッコよく見えた。


別の本で、たしか子供向けの植物図鑑だったと思うのだが、雑草でひな人形を作るのにも憧れた。葉っぱを何枚も重ねて十二単を作り、たんぽぽの花を男雛、アカツメクサを女雛の顔にする。昔から私は草花で何かを作ることに、ものすごくときめいた。花冠を作れるほど器用ではなかったけれど。

 

そんな記憶を脳裏にバックグラウンド再生しながら、寝る前の読み聞かせをしていると、

「ママ、ほおずりってこうやるの?」

と言って、ぴと、と息子が自分のほっぺたを私の頬にくっつけてきた。

一瞬前まで、聞いているのか聞いていないのか分からないような感じでミニカーをいじりながら横でコロコロ転がりまわっていたのに、子犬というワードが気になったようだ。ママ、こいぬって、かわいいねえ。そう言ってにこにこしながら、私の片膝によじ乗り、赤い頬を私に寄せる。

 

つるつるでさらさらなほっぺただなあ。
頬と頬が触れるだけで、セロトニンがぶわあっと出るのがわかる。

 

絵本の良さって、こういうことだよな思う。遊んでやるのが他の親と比べて下手なことがコンプレックスな私にとって、絵本を読むことは親子の触れ合いのきっかけだし、コミュニケーションのための道具である。

もし息子が将来、子を持つ親になったとしても、ならなくても、いつか「子どもの頃に読んだ本だ」と思って『きょうはなんのひ?』を手に取ることがあるのだろうか。こんなふうに私とほおずりをしたことは無論覚えていないだろう。それでも、「ああ、子犬が出てきたな」なんてぼんやり思い出したりするのだろうか。