子と絵本を読む

子育ては、自分の子供時代の追体験だなと思うことがある。

 

3歳の息子のためにという名目で、図書館で絵本を借りる。

息子が好きな乗り物の本やおさるのジョージのほかに、賢くなれよという下心から、「ちいさなかがくのとも」を3冊手に取る。加えて、私自身が小さかった頃に好きだった絵本を1冊、息子の絵本バッグに滑り込ませる。

 

先日は選んだのはこれ。

 

きょうはなんのひ?(福音館書店
コマ割り風の絵も好き

「おかあさん、きょうは なんのひだか、しってるの?しーらないの、しらないの、しらなきゃ かいだん 三だんめ」

そうそう。この出だし。

はじける笑顔で謎めいた歌を歌うものだから、冒頭から、「まみこの領分」に引き込まれてしまうのだった。宝探しのストーリー展開に、わくわくしながらページをめくったのが懐かしい。大人になって読み返してみても、家族を喜ばせたいという温かさに包まれた一冊だなと思う。

 

特に気に入っていたのは、まみこが宝物の中身を明かすシーンだった。

入れ子のように重なった、手作りの色とりどりの箱を開けていく(マトリョーシカのように小箱を作って隠す、その発想にもわくわくした)。最後の小さな箱の中にコロンと入っていたのは、青い竜の鬚の実と赤い南天の実。まみこの宝物は「父と母」そのものであり、彼らを紫水晶とルビーに見立てて贈ったのだ。

 

実際に「竜のひげの実」を見たことは無かったけれど、たぶん近所の公園か雑木林で見つけられるものなのだろう(調べたところ、リュウノヒゲは一年中通して道端やマンションの植栽でよく見かけるものであり、秋から冬にかけて実をならせるらしい)。身近なところで見つけたものを特別なものに見立てるそのセンスが、粋だ。もちろん、両親を想うまみこの愛も素晴らしいのだが、それ以上に、木の実を使ったその表現力にグッときてしまった。“生活の延長線上に、宝物は転がっている”。当時の自分と同じくらいの歳なのに、それを知っている絵本の中のまみこが、なんだかすごくカッコよく見えた。


別の本で、たしか子供向けの植物図鑑だったと思うのだが、雑草でひな人形を作るのにも憧れた。葉っぱを何枚も重ねて十二単を作り、たんぽぽの花を男雛、アカツメクサを女雛の顔にする。昔から私は草花で何かを作ることに、ものすごくときめいた。花冠を作れるほど器用ではなかったけれど。

 

そんな記憶を脳裏にバックグラウンド再生しながら、寝る前の読み聞かせをしていると、

「ママ、ほおずりってこうやるの?」

と言って、ぴと、と息子が自分のほっぺたを私の頬にくっつけてきた。

一瞬前まで、聞いているのか聞いていないのか分からないような感じでミニカーをいじりながら横でコロコロ転がりまわっていたのに、子犬というワードが気になったようだ。ママ、こいぬって、かわいいねえ。そう言ってにこにこしながら、私の片膝によじ乗り、赤い頬を私に寄せる。

 

つるつるでさらさらなほっぺただなあ。
頬と頬が触れるだけで、セロトニンがぶわあっと出るのがわかる。

 

絵本の良さって、こういうことだよな思う。遊んでやるのが他の親と比べて下手なことがコンプレックスな私にとって、絵本を読むことは親子の触れ合いのきっかけだし、コミュニケーションのための道具である。

もし息子が将来、子を持つ親になったとしても、ならなくても、いつか「子どもの頃に読んだ本だ」と思って『きょうはなんのひ?』を手に取ることがあるのだろうか。こんなふうに私とほおずりをしたことは無論覚えていないだろう。それでも、「ああ、子犬が出てきたな」なんてぼんやり思い出したりするのだろうか。