努力とは?

幼児向けのミュージック・ワークショップなるものに出かけた。

ワークショップはすばらしいものたったが、結論から言うと我々はあまり楽しめなかった。参加型のワークショップなので、12組ほどの親子の前で子どもが自己紹介するところから始まる。まじか、と思った。太郎は繊細で、新しい環境に強い不安を感じやすく、人の気持ちを敏感に感じとるタイプだ。案の定、私にギュッとしがみついて離れない。仕方がないので、わが子の番がくると、太郎を抱っこしながら前に行って、私が代わりに「たろうです」と名前を言った。太郎に負けず劣らず、私も人前に出るのが大の苦手なので、蚊の鳴くような声で申し出た。ピアノ担当のお姉さんが成り行きを見守りながら、戸惑うように指をおいた和音が、部屋全体に寂しく伸びる。

私も子どもの頃、親子参加型の英語教室の体験に行った。よく知らないところに連れてこられて、よく知らない人たちのまえで、どうやって楽しく英語の歌を歌えるというのか。子どもの頃から自意識の塊だったので、とんでもない羞恥プレイだった。私を連れてきた母に対して、なんてとこ連れてきてくれてんだよ心の中で怒りまくった。

さて、他の子どもはつつがなくみんなの前で自己紹介をし、ワークショップの物語に没頭していった。太郎も、少しずつ興味を示し、皆んなと同じ動きをするときは少し気をゆるめてはしゃいでいたものの、最後まで完全に空気に慣れることはなかった。動揺を周りに悟られまいと、私も引きつった笑顔を終始繕った。マスクをしてきてよかった。

ワークショップ後は講師との写真撮影があったが、私たち(というか、私)はそそくさと会場をあとにした。良かれと思って申し込んだのに、結果的に太郎に強いストレスを与えてしまったのではないか。幸い、子は「公園であそぶー」などとケロッとしていた。よかった。今日のことで、絶対に自己嫌悪に陥ってほしくない。

私もそうだが、苦手なことに対峙したとき、どう乗り越えるべきか、もしくは乗り越えるまでは行かなくとも、どうすれば他の人並みにできているように見せるか、きちんと自分なりの対処方法を分かっておくようにしなければならない。自分の取り扱い説明書を持ち、攻略方法を把握しなければならないと思う。ネットで読んだ記事には「スモールステップで成功体験を積むべき」、とあった。スモールステップ。小さな階段。今日感じとったことを私が糧にすればいい。この日のことも、スモールステップになればいい。

 

前職は雑誌の編集の仕事をしていたのだが、上司は私の書く原稿がとてもよくできていると褒めてくれた。単純に嬉しかった。

ただ、それはかつて出会った編集者の「わかりやすい文章を書くためのポイント」を実践したり、いいなと思うライターさんの原稿をたくさん読んで傾向を真似ただけのもので、何か私だけに備わった特別な文章の才能があるわけでは決してない。事実他の部員から評価されたことはないし、むしろ同僚からは「クセがある」と指摘されたことがある。ただ単に上司が私のことを履き違えている可能性も高い。しかし、それなりの文章に見えるポイントを押さえることができたとしたら、その業務(この場合は原稿執筆業務)を人並みにこなすための自分なりの対処方法を言語化できていたということでもある。

こういう小さな成功体験を増やしていきたい。能動的に得てきた知識(よく書けるポイント)と、否応なしの実践の場(毎月の原稿)を繰り返したことが良かったのか。思えば、自分は何をやっても人並み以下だったが、無駄な反復練習をしてきたものの、うまくやるコツの言語化はおろか、なにか能動的に知識を得ようとしていなかった。よくある言葉で言う「インプットとアウトプットが大事」というのは、こういうことなのだろうか。「努力」って、こう言うこと?

いつか子どもに、新しい環境への立ち向かい方を聞かれる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。私にできることは、同じ悩みを持つ同志として、共感し、自分の経験をもとに感じたことや教訓を伝えることくらいかなと思う。私は私のポンコツさをあきらめている場合ではない。でも、本当にそうかな。